稲垣清(海軍軍人)
稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月 - 1941年(昭和16年)12月8日?)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。(wikipediaより)
大西瀧治郎
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将。(wikipediaより)
特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ
(海軍中将大西瀧治郎遺書より)
えーゴールデンウィークも最終日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
自分は今回も定例通りの長期ツーリングへ行ってまいりました。
ただ、本当は最終日に岡山から陸路で帰る予定でしたが、土日が雨という予報でしたので予定を短縮して土曜のフェリーで帰った次第です。
まぁそれ以外の日は超好天で良いツーリング日和でした。いつものフェリーで先ずは大阪へ向かいます。バイクの多さは流石GWといったところですな(=゚ω゚)
そんな感じで先ずは九軍神の一人であります「稲垣清兵曹長」の墓碑を訪ねます。
ネットに写真はありますが、細かい場所は判りませんのでとりあえず三重県一志郡一志町にあります墓地へ。
えー墓地4箇所、寺社各1個所を探索しましたが見つかりませんでした orz
近くの畑にいたお爺様(昔GPZに乗ってらっしゃった)やお墓の掃除をしてらっしゃったお婆様にも話を伺いましたが、稲垣兵曹長の事自体ご存じないとの事・・・もう地域の方にも覚えてられないというのが切なかったです。
タイムリミットの2時間が経過しましたので、神社にありました大きな忠魂碑に手を合わせて慰霊の念を送りつつ後にしました。次は絞り込めれば良いなぁ…
そして途中で五平餅代わりの揚げモチを昼食にして一気に神奈川県は横浜へ。なんか見覚えあるなーと思ったら正月に来たパシフィコ横浜の超近所…近くの駐輪所にバイクを置いていざ!
ここが「海上保安資料館横浜館」でございます!
呉にある「海上保安資料館」へお伺いした時は巡視船あまみの船橋が展示されておりましたが、こっちは不審船自体が・・・え”、こんなにデカかったの??と喉から変な声が。
これもう不審"船"じゃなくて不審"艦"じゃね?というレベルの大きさ&装備。銃座もあるしケツから揚陸艇(?)出るし…これは海保じゃなくて海自の出番て気がします。
その他装備品の展示も多数。
何故かカップルや家族連れが多い展示でした(^^;
そしてここから20分程のところにあります「總持寺」へ向かいます。ここには今回自分の中でもかなり複雑な気持ちの人の墓碑があるのです。
お寺の近くにバイクを停めて、横の階段を登って墓地へ。
誰もいない静かな本殿を眺めながら墓地を歩きます…ありました。
ここが所謂「特攻の発案者」の一人と言われる「大西瀧治郎(中将)之墓」です。
墓碑の左には海鷲観音、右には遺書を彫った碑があります。
特攻に関しては割と多くの戦争博物館や慰霊碑等を見学・参拝しておりますので色々と思うところがありますが、自分に出来るのは手を合わせて安らかなれと慰霊の念をお送りすることだけです。ご焼香して祈りを捧げました。
そしてこの後は夕暮れの関東をひた走り、去年と同じ東横インへ。
何故同じ場所に宿を取ったかと言いますと・・・
そう!実は提督仲間でもありますエノテカダイナーさんで去年と同じく豪華ディナー!!
今日はモチしか食ってませんので腹一杯に酒と食事を楽しませていただきました。本当に美味しかった…
こんな感じでゴールデンウィーク、スタートです。
・・・俺たちの旅はまだ始まったばかりだ!(7ヵ月ぶり20回目)