海鷲三士官
昭和16年12月 8日未明、航空母艦六隻を中心とする連合艦隊は長躯ハワイを奇襲。米太平洋艦隊が集結する真珠湾に、航空機を主力とする攻撃を敢行した。
そして再び母艦に還らざる攻撃機 29機(第一次攻撃隊 9機、第二次攻撃隊 20機)。54人の搭乗員が従容として散華した。
牧野三郎海軍大尉(海兵60期、「加賀」艦爆隊)、飯田房太海軍大尉(海兵62期、「蒼龍」艦戦隊)、鈴木三守海軍大尉(海兵65期、「加賀」隊)の三人は、海軍兵学校出身の「海鷲三士官」として勇猛さを称えられた。
下士官搭乗員の多くも攻撃後の母艦帰投を断念し自爆散華し、不時着後に自決したものもいる。彼等の念頭には、落下傘を使って助かるという選択肢は無かった。(殉国之碑より)
女川戦没者慰霊塔
太平洋戦争苛烈を極めたる昭和二十年八月九日、十日両日に亘り 女川湾内所在の日本海軍防衛隊及び巡洋艦大浜以下五隻は 連合軍機動部隊の艦載機と激戦して数機を撃墜し捕虜一名を得たるも 艦艇悉く沈没し海軍主計少佐飯田寛吉殿以下百五十七名の戦死をみたるは洵に悼惜にたえず 然るに右防衛隊の生存者神田義男氏は昨年東南アジア、沖縄等の戦跡を弔い深く感ずる所あり 町内有志の賛同を得て慰霊塔を建立せんと発願し余に撰文を求む 依って不文を顧みず梗概を録し以て英魂を慰む(碑文より)
多賀城海軍工廠
昭和18年11月、開廠(横須賀海軍工廠所属)、海軍の航空機銃・機銃弾の一元製造を担当。専用鉄道も多賀城海軍工廠の竣工と同時期に完成し、東北本線陸前山王駅と機銃部南門前(現仙台臨海鉄道仙台港駅付近)を経由して、火工廠(現陸上自衛隊多賀城駐屯地)へ至る路線が敷設された。戦後廃止されたが、昭和45年に仙台臨海鉄道が建設される際には、工廠線の路線跡が再利用された。(殉国之碑より)
菅野直
菅野 直(かんの なおし、1921年(大正10年)10月13日 - 1945年(昭和20年)8月1日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。大東亜戦争における撃墜王。戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐。(wikipediaより)
旅行最終日。この日の午後の飛行機で九州へ戻ります。
ホテルの朝食も6時半から食べられたんですが、この日は色々と不確定な場所が多かったので朝5時出立でございます。
そんな感じで小雨の降る中、朝6時に目的地「切通霊園」に到着です。こちらには真珠湾攻撃の時に海鷲三士官と称えられた一人「鈴木三守中佐墓碑」があります。
傘をさして小雨を避けつつ墓地を探索。案内図があるので判り易いですが、一番奥の戦没者墓碑にあたりをつけて・・・ありました。
傘を降ろし、少し濡れながらですが焼香と手を合わせて慰霊の念を送ります。どうか安らかにお眠りください。また日本が危機の時には見守り下さい。
途中のコンビニで仙台名物の朝ご飯を食べながらまた1時間程、今度は石巻を抜けて海方面の丘の上へ。なんかスゲェ霧が出てきたんですけど・・・
そして到着。
ここが女川湾の戦いで亡くなった英霊を祀る慰霊塔と慰霊碑です。
少し雨に濡れながらですが、手を合わせて慰霊の念をお送りしました。
また1時間弱ほど走りまして今度は多賀城市へ。
細い道を抜けつつなんかスゲェだだっ広い場所に到着します。
ここも城址っぽいのですが入口に神社っぽい建物が・・・ここかな?
ありました。ここが多賀城海軍工廠奉安殿を移設して作られた「多賀城神社」です。
宮城の海軍工廠跡を残す遺構ですので是非見たかった…手を合わせて残りの道中の安全を祈りました。
そして今回の旅、最後の地へ。
また1時間程で「称念寺」さんへ到着します。
奥で工事をしている音がしますが、他に人影もありませんので雨の止んだ曇天の下を歩いて裏の墓地へ。
沢山の献花が溢れる「故海軍中佐菅野直墓碑」にお会いすることができました。
以前行った紫電改展示館でもお写真を拝見したと思います。どうか安らかにお眠りくださいと焼香させていただきました。
これにて長いようで短かった夏休みの東北旅行もおしまいです。
福島で個人的に見たかったモノを拝見した後、空港に戻って飛行機を待ちつつ仙台名物を美味しくパクパクです。
たくさんの慰霊碑・神社・墓碑・そして英霊の皆様に参拝出来たことを感謝しつつ、今回も無事に旅行を終える事ができました。
東北は概ね見回った気がする…次はどこに行くかな。