山形県護国神社
山形県護国神社(やまがたけんごこくじんじゃ)は、山形県山形市にある神社(護国神社)である。明治維新から第二次世界大戦までの戦没者4万余柱を祀る。
明治2年(1869年)1月、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士10柱を祀るために山形市八日町に社殿を造営したのに始まる。明治8年に山形招魂社となり、以降山形県関係の戦没者を合祀した。明治22年(1889年)山形市宮町に遷座し、明治44年(1911年)の山形市北大火の災厄で社殿焼失の憂き目に遭ったが、大正3年(1914年)に再建された。昭和9年(1934年)千歳公園内の現在地に遷座した。昭和14年(1939年)の制度改革により内務大臣指定護国神社となり、山形県護国神社と称した。GHQ占領下の昭和22年(1947年)から昭和27年(1952年)においては所在地の千歳公園に因んで「千歳宮」と称していた。現在の拝殿は平成6年(1994年)に改築されたものである。(wikipediaより)
第36師団 (日本軍)
第36師団(だいさんじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。通称雪部隊。
日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939年(昭和14年)2月7日に新設された師団の一つであり、同時に第32師団・第33師団・第34師団・第35師団・第37師団が新設された。また同年6月30日には第38師団・第39師団・第40師団・第41師団が新設された。(中略)
1944年(昭和19年)4月22日に米軍がホーランジアに上陸を開始すると、迎撃に向かうが、米軍が5月17日にサルミ地区東方のトムにも上陸、迎撃隊は反転してトムに移動して迎撃した。ビアク島でも5月27日に米軍が上陸、一時はビアク支隊により米軍を撃退したが、反撃され約40日間の戦闘で葛目連隊長は自決、ビアク支隊は全滅した。師団主力もサルミに上陸して来た米軍と交戦、対峙した。同年6月以後から師団は攻撃を断念、米軍も進撃をしないまま小競り合い程度になり、そのまま持久戦が続いた。その後、将兵は散発的な戦闘を行い、飢餓とも闘いながら終戦を迎えた。(wikipediaより)
工藤俊作 (海軍軍人)
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人。1942年3月の駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐。(wikipediaより)
青空の見える道を順調に走りまして、山形の中心部まで参りました。超寒い。
川沿いにあります細長い感じの大きな神社。ここが山形県護国神社です。
駐車場の案内をしてくれる守衛さんとかいらっしゃいますが、参拝者はワイ含めて数えるほどしかいません。まぁまだ休みの9時だしなぁ…とりあえず本殿に参拝しましてごあいさつを。
周囲を見渡しますが特に慰霊碑っぽいものはありません。む、裏に公園っぽい場所が…
お隣にあります「出羽国分寺薬師堂(薬師公園)」にいくつか顕彰碑・慰霊碑がありました。特に「雪部隊(第36師団)」の慰霊碑前にはたくさんの献花やお供えがあり、大事にされているのだなぁと感じた次第です。自分も手を合わせて慰霊の念を送らせていただきました。
身体もお腹も冷えてきたところで車に戻りまして、次の場所へ向かいます。
見渡す限り水田っぽい平地が広がる中、「浜田広介記念館」の駐車場の片隅にありますのが以前埼玉の薬林寺でも墓前に御参りしました工藤俊作艦長の顕彰碑です。同高畠町の出身と言うことで此方に顕彰碑を作られたとの事。自分も是非皆に知ってい欲しい人物でアリマス。
こんな感じで午前中の山形を過ごしまして、とうとう宮城県へカムバックです!