埼玉縣護國神社
埼玉縣護國神社(さいたまけんごこくじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する旧指定護国神社である。
埼玉県人の英霊の祭祀は、昭和以前は県内各所に神籬を建てて鎮魂慰霊の祭祀を行っていたが、満州事変で県下の英霊が増えたのを機に、招魂社創設の機運が高まり、昭和9年(1934年)4月9日に朝香宮鳩彦王(当時近衛師団長)臨席の下、「埼玉県招魂社」として鎮座した。同14年3月に「埼玉県護國神社」と改称して4月に指定護国神社となる。
戦後の昭和21年(1946年)2月に宗教法人となり、同23年10月に崇敬者の総意により一時「埼霊神社」と改称したが、同27年に「埼玉県護國神社」に復した。昭和30年(1955年)、奉賛会が設立される。また、平成25年10月には特攻勇士の像が建立された。(wikipediaより)
薬林寺
開基は室町時代、開山は当山第一世法印宥淳和尚で、寛正元年(1460年)五月とされています。
中興開山は、第四世法印了高和尚で、大永五年(1525年)六月です。
薬林寺は往古、樋の爪村(現朝日)の西を流れる野川(現芝川)のほとりに大伽藍を配し建てられていました。
しかし天正年間(1573~91年)北条氏との戦いに敗れた岩槻太田の落人が、樋の爪村薬林寺へのがれて来た時、村民が集って堂を破壊してしまい、その後再建の時、現在地へ移ったと伝えられています。(真言宗智山派埼玉第一教区より)
工藤俊作 (海軍軍人)
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人。1942年3月の駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐。
身長185cm、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった。戦後は海兵のクラス会には出席することもなく、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。(wikipediaより)
昨日から一転して暑い日になりつつある3日目、昨晩飲んだ風邪薬が効いたのか調子良い感じで早朝スタートと相成りました。
最初に向かうのは埼玉県護国神社です。
そして到着。
びっくり点その1:参道を車道が横切ってる。
びっくり点その2:武蔵の艦内神社である氷川神社と超近所。
びっくり点その3:・・・なんかコンパクト。
車道を挟んだ向こう側にも鳥居や敷地はあるっぽいのですが、車道からこっち車を何台か駐めたら一杯になりそうなレベルです。護国神社でこんな…まぁ、立派な本殿と鳥居ですけど…なんかすごいッス。
車道から向こうが本殿。
広ければ良いってもんでもないのは確かですが、かなり衝撃を受けたのも確かです。…まぁ気を取り直して参拝させていただき、周囲の慰霊碑も詣でます。
どうか安らかにお眠りください。
気を取り直して次の場所へ向かいますが、次は神社ではなくお寺の「薬林寺」さんです。ここには知る人ぞ知る駆逐艦「雷」の艦長でいらっしゃいました工藤俊作氏のお墓があるという事で、ご焼香だけでもとお伺いした次第です。
町中に突然立派なお寺が出てきてちょっとびっくりしますが、通路近くの自転車置き場にバイクを置いて突入します。ちなみに手前と奥にお墓がありますが、工藤艦長のお墓は本殿横を抜けて裏にある墓地にあります。 自分は迷ったッス
無事にお伺いできましたので、ご焼香をして手を合わせ、ご冥福をお祈りしました。
ちなみにこの後、駐輪場でお爺さんに「遠くから来なさったね!」とバイクのナンバープレートを見て声をかけていただきました。まだまだ旅は長いッスよ!