兵庫縣姫路護國神社
兵庫縣姫路護國神社(ひょうごけんひめじごこくじんじゃ)は、兵庫県姫路市にある護国神社。兵庫県西部地区出身(播州・但馬地区十二市十五郡)の戦没者56988柱を祀る。姫路城の中曲輪内の敷地に当たり(現:姫路公園)、かつては武家屋敷だった。
1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定、1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。翌1939年(昭和14年)、制度改革により兵庫縣姫路護國神社となり、内務大臣指定護国神社となった。第二次世界大戦後のGHQ占領下は、「護国神社」の名称では軍国主義施設として廃止される虞があるとして、姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していた。独立後は元の社名に復した。(wikipediaより)
岡山縣護国神社
岡山県護国神社(おかやまけんごこくじんじゃ)とは岡山県岡山市中区奥市にある護国神社である。旧社格は内務大臣指定護国神社で、戦後別表神社となった。
境内には戦死者の慰霊碑が数多く建立されており、シベリア抑留者や宇垣纒海軍中将と十七勇士の菊水慰霊碑などがある。
岡山藩主であった池田章政が、1869年(明治2年)4月3日に現在の後楽園公園裏竹田河原に於て、奥羽戦争戦死者である雀部八郎時宜など34柱の招魂祭を挙行し、6月に上道郡門田村幣立山地180坪に社殿と碑石を建立し、奥羽、函館両戦争戦死者を祭祀したのが起源である。
1874年(明治7年)3月17日に官祭となり、岡山招魂社となった。1922年(大正4年)に現在地に移転、4月26日に社殿が竣工した。1939年(昭和14年)4月1日に内務大臣指定と共に「岡山縣護國神社」と改称した。戦後の一時期は連合国の占領政策により「操山神社」としていたが1952年(昭和27年)に現在の名称に復帰した。また戦後になり改修工事などが行われている。(wikipediaより)
菊水作戦
菊水作戦(きくすいさくせん)は、太平洋戦争末期の天号作戦中、沖縄に来攻する連合国軍に対し特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。
第一機動基地航空部隊(第三航空艦隊、第五航空艦隊、第十航空艦隊)によって1945年4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで行われ、これらに策応し、海軍の第一航空艦隊や陸軍の第六航空軍、初期には第八飛行師団も総攻撃を行った。これらの作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。(wikipediaより)
宇垣纏
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名(wikipediaより)
なんか暑さ寒さが変な感じになっています此頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回「平日」に行きたい場所があったため、14日の祝日を仕事に変えて21日を代休に、21日~22日の無理やり連休で未踏の地だった岡山~鳥取間の色々な場所を見てまいりました。
今回は久しぶりに名門大洋フェリーで大阪南港へ。
かなり肌寒い天気ですが雨は降らず・・・と言うことで、早朝の曇天へ飛び出します!
まずは大阪を抜けて、前回行けなかった「兵庫縣姫路護國神社」へ。大体90分くらいの道のりです。
姫路城の近所っぽくて一度だけ天守が見えた気もしますが、そっちは興味無いので放置の方向でひとつ。
本殿へご挨拶。神社前には学校があるらしく、自分のバイクの前を制服姿の高校生が通り過ぎて行ってて何故だか罪悪感が。ちゃうねん、サボりじゃなくて代休やねん。
挨拶が終わりましたら周囲の慰霊碑群へ。
数々の慰霊碑や顕彰碑があるのですが、最後にあったのは「詩家吟詠道 賀堂流碑」
・・・右下にあるボタンを押すと、朗々と歌を歌い上げます。5分くらい流れてましたのでちょっと辛かったッス(^^;
慰霊碑には感謝と慰霊の念をお送りしました。
そしてそこからまた90分程、今度は山奥にあります「岡山縣護国神社」へ。
境内には砲弾と顕彰碑がちらほら。慰霊碑は境内外で見かけましたので外へ飛び出して確認します。
左側には幾つかの慰霊碑が。
宇垣中将や菊水作戦の慰霊碑もあるのか・・・
出て右側は通常の慰霊碑がありましたので、そちらにもごあいさつを。
像はなんというかアバンギャルドな感じのものが多いかもです。
一つ一つ周って慰霊の念を送りました。
こんな感じで秋の岡山~鳥取旅行、スタートです!!
俺たちの旅は始まったばかりだ!!(2ヶ月ぶり10回目)