波多見八幡神社
本神社は今より(1200)余年前の天平宝字年間に勧請。祭神は応神天皇を主神とし、神功皇后、玉依姫命の二柱を合祀す。中世の戦乱により、神社は一時矢野に遷されたが、永禄三年(1560)矢野の尾崎神社より渡子に遷座し俊当神社に遷す。天正四年(1576)小早川隆景が再建、芸藩通志に「祠宮の属(社人)十余家あり、祭時に神輿をかつぐを職とす。島中各村送迎してこれを饗す」とあり。以後二、三回の改修を経て現在に至る。(由緒書より)
ふるさと交流館
江田島市観光協会のある「ふるさと交流館」では、観光案内所、無料休憩所として江田島観光の拠点です。特産品の販売もあります。二階には展示スペース、交流スペースもあります。サイクルステーションとして、サイクリストのサポート施設としての役割も果たしています。(江田島へ行こうより)
五日市護国神社 貴船神社
祭神は市杵比買命(いちきしまひめのみこと)で、明治以降の戦没将兵と原爆犠牲学徒犠牲者も合祀されました。五日市護国神社は広島市の招魂者の本殿であったものを、昭和12年(1937)の日華事変(盧溝橋事件)の後に譲り受け、明治以後の戦没将兵を祀る五日市招魂社として建立されました。かって五日市中央通り揚上地区に鎮座していた八幡川の守護神の「貴船神社」の祭神は市杵比買命で、海老山山上に遷座し五日市招魂社と合祀されました。かって八幡川流域の舟運を支えたのは、安芸国一宮の厳島神社への信仰でした。昭和28年(1953)に原爆学徒の犠牲者を合祀し、五日市護国神社として現在に至っています。(看板より)
ちょっとタイトルが長くなりましたが、写真の関係でひとまとめの今旅最終回でございます。
晴天の下、P基地跡の探索を終えて江田島へ向かう前に、一箇所寄りたい神社がありました。それが「波多見八幡神社(八幡山神社)」です。
ここにはP基地の関係からか特殊潜航艇の慰霊碑があります。
外側も境内も見事に工事中でしたが気にせず突入。風通しの良い拝殿でとりあえず参拝した後に周囲を見ます・・・これは!!
何か関係があったのかスゲェ気になりますが、謎は後に置いといてひとまず下にあります慰霊碑へ向かいました。
向かって左側に特殊潜航艇の慰霊碑、右側には忠魂碑があります。両方とも花が綺麗に飾ってあり、とても大事にされているのが判る慰霊碑でした。どうか安らかにお眠りください。
そしてようやっと江田島入り。今回は今まで行ってなかった2つの慰霊碑に詣でます。
先ずは「軍艦大淀戦没者之碑」へ。
前来た時は場所が分からず断念したのですが・・・
こちらもとても綺麗にされている慰霊碑で、気持ちよく手を合わせることができました。焼香台がありましたのでご焼香させて頂き次の場所へ。
次はすぐ近くにあります「軍艦榛名出雲戦歿者留魂碑」へ。こちらも行きそびれていましたので、しっかり慰霊の念を送らせていただきました。
その隣にありました海軍工廠での事故死慰霊碑と謎の爺さんの像にも…誰だアンタw
ここから休憩がてら「ふるさと交流館」へ向かいます。
江田島の第一術科学校前にある建物なんですが、2階の展示室には色々なものが…特に陸奥の引き揚げ品も数多く展示してあり、とても良い場所なのです。
ただ写真はSNS等でのうpは禁止となっておりますので、是非皆さんもご自分の目で楽しまれてくださいね。
少し休憩したら江田島を後にして、最後の目的地である「五日市護国神社」(海老山公園)へ向かいました。
ここで問題発生。神社が何処にもない・・・。
高いとこにあるのかなーと一番上まで登ってみたり、小さな道を下まで降りてみたりと結構隅々まで行ったのですがどこにもない…諦めかけたその時!
え・・・ここなの・・・・?
乱雑に囲ってある隙間から神社の看板は見えますが、鳥居も本殿も何もかも無くなっております。おいおい、護国の社をこんな扱いにしても大丈夫なのかよ…と唖然としましたが仕方なし。一応手だけ合わせてこの場を去りました。
後で調べましたところ、五日市八幡神社へ本殿だけ移されたとの事ですので、次の機会はそちらを訪ねてみたいと思います。
※後日訪ねました。
この後は初夏の空の下、ツーリングを楽しみつつ帰宅しました。
次はご近所に行きたい場所が少しありましたので、そっちに向かう予定です。