貞祥寺
貞祥寺(ていしょうじ)は、長野県佐久市前山の曹洞宗寺院である。山号は洞源山である。
室町時代の1521年に、前山城主伴野貞祥が父・光利の7周忌、祖父・光信の33周忌の追善供養のために、叔父である僧・節香徳忠を招いて建立し、永百貫文の寺領を寄進した。
七堂伽藍を有する禅寺で、「信州百寺」の一つである。江戸時代には徳川家光から朱印15石を安堵された。境内には、三重塔、島崎藤村旧居、臼田亜浪歌碑などがある。三重塔と惣門・山門は、室町時代の和様と禅宗様の折衷によるもので、長野県宝に指定されている。(wikipediaより)
碑文
昭和十九年 太平洋戦争年を重ねて苛烈となり 戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えて黒木博司少佐 仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて 前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成もって頽勢の挽回を計らんと「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め 日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む 黒木少佐は訓練に殉じたるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下敵前進基地ウルシー パラオ コッスル水道 ホーランジア グアム アブラ港に また硫黄島 沖縄付近海域 中西部太平洋上に 大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当り攻撃を敢行せり 戦遂に利あらず昭和二十年八月 兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻 その乗員八百十余柱を数う 散華せし勇魂を迎慕し回天の偉業を後世に伝えんと 創始者仁科少佐の出身地佐久に永遠の世界平和を念じつつ 長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員 仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉 の霊安からんことを祈念し 戦友相寄り「回天之碑」これを建つ(回天の碑 碑文より)
飛騨護國神社
飛騨護國神社(ひだごこくじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社(護国神社)である。
西南戦争から大東亜戦争(太平洋戦争)までの飛騨(高山市・飛騨市・下呂市・白川村)出身の戦没者を祀る。
戦前は、後の神社本庁設立母体となる3団体(大日本神祇会・皇典講究所・神宮奉斎会)の地方組織である「飛騨神職会」(現存)、「皇典講究分所飛騨支所」(1929年・昭和4年廃止)、「神宮奉斎会高山支部」(1945年・昭和20年解散)が併設されていた。
(中略)
飛騨護國神社は、全國護國神社會に加盟する主要護国神社52社のうち、唯一内務大臣の指定を受けていない指定外護国神社である。(wikipediaより)
と、いうわけで長いようで短い旅行も最終日。前日が隣室のおっさんのおかげで3時起きだったせいであっという間に寝てしまい、この日も5時起き6時出発余裕でした。
この日の天候は超晴れ!初日は多少ぐずりましたが、概ね好天に恵まれた旅行でした。
とりあえず発進でございます!
まずは2時間程で到着しました「貞祥寺」です。
その手の方には有名なお寺さんらしいのですが、とりあえず突撃でございます。
中はしっとり暗い感じ。
なんつーか苔の生えてるとこは超フカフカなんですが…
静かな階段をしっとりと登り、途中にある島崎藤村っちの家(開いてない)や山門を見学しつつ上に到達。そして右に進みますと…
「回天の碑」と回天模型であります。
長野県出身の回天搭乗者や、その他搭乗者を悼んでの碑。自分も手を合わせて慰霊の念を送らせていただきました。
そしてここから3時間。素晴らしい日差しの下、最終目的地へ向かいます。
前回は雪で超寒かった奥飛騨も今回は暑いくらい。あとやっぱり渋滞きついっス。
暑い中、到着しましたのが…
こちら「飛騨護国神社」でございます。
Wikipediaにもありますように、ここは主要護国神社52社のうち、唯一内務大臣の指定を受けていないという変わった指定外護国神社なのです。
その辺はもとより万感の思いを込めて本殿にご挨拶しました。
周囲にはいくつか連立した神社や慰霊碑があります。
この旅の最後の場所です。すべてに手を合わせてこの旅の集大成としました。
昼には途中のSAで 豪華な 食事をとり、大阪のフェリー乗り場へ急ぎます。
フェリー搭乗が16時半なのですが、到着したのは16時ちょい。いつもならもっと安全マージンを取るのが定石だったのですが今回はかなりぎりぎりの時間になってしまいました。無事に乗れて良かったっス。
こんな感じで2020年シルバーウィークのバイク旅行は全巻の終了でございます。
ちなみにフェリーは福岡へ朝6時着で自分の仕事開始は朝9時 orz この手の無茶な旅行があと何年できるやら(^^;