馬門山海軍墓地
馬門山墓地は横須賀市根岸町の丘の上にあります。明治15年(1882年)に海軍省により、戦死もしくは殉職した軍人のために設けられました。戦後、横須賀市に移管されました。一部は市民墓地として利用されています。
毎年5月には、地域団体等による墓前祭が行われています。(横須賀市HPより)
愛宕 (砲艦)
横須賀造船所で1889年3月2日に竣工、1890年8月23日に第一種と定められる。船体構造は鋼骨鉄皮であった。
日清戦争では旅順・大連・威海衛攻略作戦等に参加。1898年3月21日、二等砲艦に類別。北清事変では1900年6月から10月にかけて活動した。
日露戦争では、旅順攻略作戦に参加。1904年10月6日、哨区に向かう途中で北隍城島と南隍城島の間で座礁し沈没。乗員は駆逐艦薄雲により救助された。1905年6月1日、喪失公表。(wikipediaより)
河内 (戦艦)
河内(かわち/かはち)は、日本海軍の戦艦。艦名は、幕末期の汽船「河内丸」に続いて2代目で、「河内国」に由来する。
河内型戦艦1番艦である。姉妹艦は「摂津」(旧字体では攝津)。河内型戦艦は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦である。長官公室には楠木正成(大楠公)の像が飾られていた。1918年(大正7年)7月12日、火薬庫爆発事故により爆沈した。(wikipediaより)
関東 (工作艦)
関東(かんとう)は、大日本帝国海軍の工作艦。元は日露戦争で鹵獲したロシア汽船「マンチェリア」(ロシア語:Маньчжурия)である。艦名の由来は中国東北部の別称である。
(中略)
筑波 (巡洋戦艦)
筑波(つくば)は、大日本帝国海軍の巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦)。筑波型巡洋戦艦の1番艦である。 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた。 この名を持つ日本海軍の艦船としては「筑波艦」(コルベット)に続いて2隻目。
(中略)
1917年(大正6年)1月14日、「筑波」は停泊中の横須賀港で、火薬庫爆発事故により沈没した。(wikipediaより)
比叡 (戦艦)
戦艦比叡艦歴
比叡は大正三年八月巡洋戦艦として横須賀工廠で完成し、横須賀在籍の新鋭艦として活躍した。
昭和五年軍縮会議の結果、練習戦艦となり、その兵装機関の一部を撤去し第一線を退いたが、その間にも昭和八年の特別大演習、同十年の南九州行幸及び翌十一年の特別大演習の三回にわたり、大元師陛下の御召艦としての栄に浴した。
昭和十二年「アーマー」の取付け、「バルジー」の新装備、前檣楼の改装射撃盤の近代化等の再改装が呉工廠で行われ、同五年初めに最新鋭の高速戦艦として第一線に復帰した。同年秋、横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式には重ねて御召艦となった。
昭和十五、六年には高松宮宣仁親王殿下がその砲術長として勤務された。
昭和十六年十二月大東亜戦争が勃発すると、比叡は新編成の第一航空艦隊の支援部隊として「ハワイ」印度洋「ミッドウェー」等の海戦に参加し、大いに武威を輝かした。
昭和十七年後半、南東方面の戦局が急を告げるや、同方面に再び作戦し、第二次「ソロモン」海戦南太平洋海戦に参加した。同年十一月十二日深夜「ガダルカナル」島敵飛行場砲撃に任を帯びた特別挺身攻撃隊(戦艦霧島、軽巡一隻駆逐艦十二隻)の旗艦として目的地に突入したとき、予期しない敵重巡部隊と遭遇し激しく交戦した。比叡の放った主砲の初弾で敵重巡部隊の旗艦「サンフランシスコ」の艦橋を吹き飛ばしよく敵の大部を倒したが、比叡も亦百発以上の被弾を受け、その一弾が不運にも舵取機に命中し航行不能に陥った。十三日早朝から敵機の反覆攻撃を受け単艦よく奮戦したが日没におよび阿部司令官の命により、乗員を駆逐艦に移乗し、自ら「キングストンバルブ」を開いたが、尚沈まず最後に駆逐艦雪風の雷撃で止どめの一撃を加えざるを得なかった。英霊百八十八柱は艦と運命を共にした。(慰霊碑艦暦より)
前回の静岡行で静岡内の行きたい場所を網羅していたため、今回はあっさり横須賀入りして無理のない展開・・・天候が超崩れそうなので少し急ぎ足で移動中(^^;
海側にあります海軍工作学校跡地を見た後は、少しわかりづらい場所にあります「馬門山海軍墓地」へ向かいます!
細っこい道の先にあります、これまた細い入口の前にバイクを置いて中へ参ります。ちなみに8:30~17:00しか開いておりませんのでお気をつけください。
とりあえず細い坂を奥へ奥へ。
急こう配な坂を少し登ると、分かれ道の正面に見えますのが拝霊堂と海軍墓地です。
焼香台にご焼香して慰霊の念を送ります。どうか安らかにお眠りください。
左手は一般のお墓のようなので、右の坂を上っていきます。
頂上部分は広場になっており、複数の慰霊碑が建っておりました。
「愛宕(砲艦)」「関東」「筑波」・・・いずれも大正明治時代に活躍した軍艦でありまして、爆発事故や座礁事故で犠牲者を出した艦達のようです。其々に手を合わせ、どうか安らかにと願いました。
一通り参拝しましたら、ここから10分程のところにある「光心寺」へ向かいます。
駐車場にバイクを置いて、向かいますは…
入って正面にあります「忠魂祠堂」と、その両脇にあります「軍艦比叡鎮魂碑」「軍艦比叡戦没者供養塔」、「小室千代太郎招魂之碑(初代比叡乗員)」「招魂碑」です。
それぞれにご焼香させていただき手を合わさせていただきました。
この日の探訪はこれにて終了。雨が本降りになる前にホテルinしまして、この日の夕食で向かいますは…
結構なボリュームだったんですが、ウマウマとあっという間に完食です。ムツリムとしては感慨無量な夕食でございました。
この日はこれにて就寝でございます。嗚呼美味しかった…次は島風カレーか天龍カレーをば。