吉浦神社
鍋島甲斐守直澄公は佐賀藩主鍋島勝茂公の三男にして元和元年(1615)11月12日佐賀城にて誕生され、幼名を千熊丸と言う。
生来英邁深慮にして、武勇にすぐれ、寛永12年直澄公21歳のとき江戸に参勤し、従五位下に除せられ任ぜられ寛永14年(1637)島原の乱が起こると出陣し、これを、鎮定され寛永16年(1639)直澄公25歳のとき、父勝茂公より佐賀、神崎、西松浦、藤津の各地より三万五千六百二十五石を分かち与えられ 後に一万七千石を増し蓮池に封じ諸侯に列せられた。
公は宗藩の制度にならい制度を整え藩政をよく治め善政を行い、水路、堤を築いて農業を盛んにし、学問、産業の振興につとめ、窯業、酒造業などを盛んにするなど領民のために献身され領民から深く慕われた。(中略)
文政元年(1818)150年祭が斎行され、大明神の称号を受け 以後 吉浦大明神と称し崇拝された。明治初年吉浦神社と称し明治12年には郷社に列せられた。現在五町田の氏神であり、学業、商業、産業の守り神として塩田町はじめ県内外より崇敬され参拝者が多い。(由緒書より)
熊野神社
古い狛犬があり,神社周辺には珍しい植物が自生している。10月第3土日には,大祭「相知くんち」が開かれる。(観るナビより)
という訳で小雨の佐賀行・後半戦で御座います。
微妙な雨の中、合羽を着たり脱いだりしながら南下しまして嬉野へ。吉浦神社へ…というよりは、その近所にあるっぽい公園への道標を辿ってずんずん参ります。
えー目算3mほどの和泉式部(多分夜中に動く)が目印の「和泉式部公園」の駐車場にバイクを置いて振り返ります。うむ、いつもの神社の裏側ですな。
小雨の中を遊んでる家族もいるっぽいのですが、自分は一人で黙々と神社に向かいます。
山門横に通じる裏通路だったようなので、改めて山門を抜けて本殿にご挨拶。
その後周囲をぐるっと周ってみますが祖霊社っぽいものは無し…これは参道途中にある感じかな。
表参道らしき階段を降りていきますが、雨と苔で超すべる…。
境内を見回りながら一番下まで降りてきましたが祖霊社は見つからず。この階段をまた上がるのか…と振り返るとそこに祖霊社が!もっと注意して探せ俺。
とりあえず息を整えて慰霊の念を送らせていただきました。
そんな感じでまた合羽を着込み、今度は北上して唐津方面の熊野神社へ。
下の方ではとても大きな神輿を作ってらっしゃいました(多分相知くんち)のを横目で見ながら参拝します。本殿も立派な作りですなぁ。
そしてその右横に目的の場所が。
ここが地域の英霊を祀った場所「相知護国社」です。英霊に感謝して慰霊の念をば。
奥には移設復元されたらしい忠魂碑もありましたので一緒に手を合わせました。
そしてその後なのですが、時間もあったので「牧島地区(伊万里市)」にあるという忠霊社の探索へ向かいます。
牧島地区にあるっぽい神社は全部で4箇所。どこかにあるだろうと思って移動したのですが・・・
結論から言いますと忠霊社見つからず!orz
「木起神社」「淀姫神社」「金比羅神社」には慰霊碑は全く無く、唯一「志賀神社」に忠魂碑と地区の英霊のお名前がありました。
途中で伊万里警察署に聞いたりもしたのですが、よくわからない(当たり前だ)との事でしたのでギブアップ。今回の探索はここまでとなります。
伊万里の探索は時間を見てまたやりたいですねぇ。