岩国護国神社
当神社は旧岩国藩主吉川経幹公が維新前後の戦役に斃れられたる二十二名の御霊をお慰めする為明治元年秋関所山に社殿を造営毎年祭典が擧行されたのに起源する。
爾来 西南・日清・日露・大東亜戦争などに於いて散華された戦没者を合祀し平成十六年四月一日現在三千三十一柱の御霊を奉斎する。
明治二十四年岩国町関所山招魂社と称し山口県庁の管理に属していたが護国神社制度が公布されて岩国護国神社と改称する。
昭和二十年の豪雨による境内・参道の損壊により昭和二十八年秋関所山より現在地に社殿を移築建立しまいとし四月十一日と十月十日に厳粛に慰霊大祭をとり行っていたが平成十四年から十月は第二月曜日に変更して現在に至る。(由来書より)
第六潜水艇
第六潜水艇(だいろくせんすいてい、後に第六潜水艦と改称)は、大日本帝国海軍の潜水艇。艦級は改ホランド級で、1906年(明治39年)4月5日竣工、1920年(大正9年)12月1日除籍。その後、沈没の際の乗組員の行為が顕彰されたため、海軍潜水学校で展示されたが第二次世界大戦後に進駐軍によって解体された。(wikipediaより)
佐久間勉
佐久間 勉(さくま つとむ、1879年9月13日 - 1910年4月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。
1910年4月15日、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中沈没して佐久間以下14名の乗組員全員が殉職した。同年4月17日に第六潜水艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。その遺書の内容は同年4月20日に発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。同年4月26日には、佐久間の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行された。(wikipediaより)
無事に厳島神社の参拝も終え、このまま帰るのもなんだなーと言うことで、帰り道にあります岩国市へ寄ることに。何度も通った場所ではあるんですが寄ったことなかったんですよねぇ。
まずは宮島フェリー乗り場から40分程。なんかもう真夏日っぽい日差しを背中に浴びながら岩国護国神社へ到着です…裏に。
誰もいない静かな境内へ。
まぁ裏の駐車場はそれなりに日陰があったので助かったのですが、階段を登って参拝致します。どうか安らかにお眠りください。
そして周囲の慰霊碑へ。
立派な忠霊塔と周囲に少しの慰霊碑。暑い中ですが静かに手を合わさせていただきました。忠霊塔の徽章が陸軍の星と海軍の錨を組み合わせたものってのも珍しいかも。
一通り参拝させていただいた後は次の場所へ。
小学校の裏山にあります第六潜水艇殉難者記念碑です。運動会の音が小さく響いておりますが、概ね風の音に紛れている感じ。こちらにも慰霊の念を込めて手を合わせます。
向かって右からは岩国の海がよく見えます。
実は自分は第六潜水艇の事件のことをそこまで詳しく調べずに来たのですが、慰霊碑の隣りにあります艇長の遺書で愕然とすることに。
「佐久間艇長遺書
小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す 誠に申し訳なし されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着に事をしょせり 我れ等は国家のため職に倒れ死といえどもただただ遺憾とする所は天下の士はこれの誤りもって将来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざるやを憂うるにあり願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を さすれば我ら等一つも遺憾とするところなし
沈没の原因
ガソリン潜航の際過度探入せしため「スルイスバルブ」を締めんとせしも途中「チエン」切れよって手にて之を閉めたるも後れ後部に満水(せり) 約二十五度の傾斜にて沈降せり 中略
公遺言
謹んで陛下に申す 我が部下の遺族をして窮するもの無からしめ給わらん事を 我が念頭に懸かるものこれあるのみ 中略 ガソリンをブローアウトせししつもりなれどもガソソリンにようた 十二時四十分」
なんかもう遺言を見て目頭が熱くなりました。自分が死ぬ直前に事故の詳細をまとめ、今後の発展を憂い、部下の遺族まで言及する事ができる胆力と志。本当に惜しい人を亡くした事件だったんですね…。改めてもう一度手を合わせて祈りました。
その後は岩国駅前空襲の平和記念碑がどこかの公園に移設されたという噂を聞いていたので、それを探してさまようことに・・・ここかな?
干からびる前に無事到着。
結構小さい像だなーとは思ったんですが、もうちょっと丁寧に扱っても良いんじゃないかと思った次第(^^; 部分的に下地見えちゃってるとこあるし、自分行った時は手に10円玉挟んでありましたぜ…なんかちょっと残念。
この後はコンビニのイートインで休憩し、無事に帰還することができました。
夏の旅行もこの暑さは思いやられるなぁ。