笠之原航空基地
旧笠野原飛行場として大正11年8月から24年間にわたり、旧陸海軍の飛行場基地として使用されていました。太平洋戦争末期の昭和19年1月15日には海軍航空基地が設置され、翌昭和20年1月には第203航空隊零式戦闘機72機が配備され、神風特攻隊として南海の戦場に飛び立っていきました。現在は、地下道入口が残っています。滑走路へと通じるとともに、通信指令室もありました。笠之原地区には掩体壕もあり、掩体壕には、零戦が格納してあったと言われています。(九州旅ネットより)
小塚公園 特攻隊戦没者慰霊塔
今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず
太平洋戦中鹿屋航空基地より 飛びたち肉弾となって散った
千有余の特攻隊員
御霊よ安かれ 必ずや平和の礎たらん(碑文より)
桜花 別盃之地
神之池基地及びその他の基地より志願して来た特別攻撃隊員は、日本最南端の九州鹿屋の野里村小学校に結集、昭和20年3月21日より同年6月22日まで出撃を継続し散華していった。
神雷部隊の後続は竜巻部隊と呼称、その中には櫻花隊、攻撃隊、爆戦隊があった。
私もこの時海軍報道班員として野 里村の百姓屋に住み、隣家にあられた特攻隊育ての親岡村基春司令の謦咳に接し、戦況の推移を具にこの眼に焼きつけたが、連日、紅顔の還ること無き出撃隊員を、血涙で見送った辛い思い出がある。
この若き戦士達の鎮魂を希い全日本人の感激を籠めて撰文と為す。(碑文より)
鹿屋戦跡探索後半です。
電信室を出た後は同市内にあります川東掩体壕を目指します。鹿屋も結構戦跡残ってるんですけど、前回は二式大艇見るだけで精一杯だったんですよねぇ。
少し町の方に向かい20分程度、広い広い畑のど真ん中にぽつねんと残る掩体壕・・・掩体壕だけでもかなりの数を見てる気がしないでもないです。
何気にこういう貫通型の掩体壕って珍しい気がするんですがどうでしょ。最初から貫通してたのか知らん。
多少の疑問を残しつつ、次の小塚公園へ向かいます。
お掃除の業者さんが入ってらっしゃいましたが、邪魔にならない場所へバイクを駐めて慰霊碑に参拝します。特攻の慰霊碑は特に感慨深いッス。
そのまま休憩無しで鹿屋最後の場所、桜花の碑へ。
こちらは鹿屋でも少し外れた場所にありました。
涼しげな風に吹かれながら悠々と佇む姿、どうか安らかにお眠りください。
結構鹿屋奥地まで入りましたが、ここから反転して宮崎へ向かいます!