鳥取縣護国神社
明治元(1868)年11月2日、鳥取藩主・池田慶徳公が岩美郡富桑村各台に仮殿を建立し、戊辰の役(奥羽の役)において散華した鳥取藩士の招魂大祭を斎行します。
(中略)
昭和14(1939)年3月15日、内務省令第十三號『招魂社ハ之ヲ護國神社ト改稱ス』発令により、4月1日、内務大臣指定とともに鳥取縣護國神社と改称し、社地の整備、及び社殿を新築します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け大東亜戦争は停戦、連合軍の進駐により護國神社に対し干渉・抑圧が加わったため、因伯神社と改称します。
昭和22(1947)年4月2日、鳥取大火に際し社殿が全焼してしまった為、智頭町智頭農林学校の奉安殿を移築し仮本殿、焼失を逃れた参集所(招魂社時の拝殿)を仮拝殿に転用します。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和條約の発行によりわが国は主権を回復、鳥取縣護國神社に復称します。
昭和29(1954)年3月、伊勢神宮の別宮・倭姫宮より譲与された社殿を本殿として改築します。
昭和48(1973)年2月、鳥取県護國神社復興奉賛会(県知事・石坂二郎会長)が発足、鳥取砂丘隣接地2,652坪)を購入、3月、社殿を起工、昭和49(1974)年4月、竣工し、5月4日、遷座祭を斎行し現在に至ります。(由緒より)
山王宮日吉神社
70年以上の伝統を持つ市指定の無形文化財。毎年5月3日に行われる伝統行事であり「よいとまかせ」の声が町中に響き渡る神幸神事。杖払を先頭に獅子舞や山車も出て200人を超える氏子が行列となり練り歩く、最大規模の古式豊かな祭典です。
毎年10月17日は、赤ちゃんの健やかな成長を願って秋の祭りに「赤ちゃん泣き相撲」を奉納しています。男の子には末尾に「山」、女の子には「川」のついた四股名が付けられ、関取役の大人に抱きかかえられて土俵に上がり、東西に分かれて自慢の泣き声を競います。
毎年10月の最終日曜日、その年の新藁で編んだ長さ8m雄・雌のヘビ(くちなわ)を日吉神社の境内の榊の木に巻きつけ、1年間の収穫を報告・感謝する祭礼が行われる。雌は腹部に鶏卵5個入れ膨らませて編み、ヘビの頭はそれぞれの町の方角を向くように巻きつけ、子孫繁栄の祈願をします。(とっとり旅の生情報より)
という訳でこの日も終盤、日本海に臨む鳥取市の神社を巡ります。
先ずは鳥取県護国神社。隣にでっかい砂場(砂場言うな)があるので道路も超砂っぽいッス。ツーリングにはちょいキツイ(ーー;
色合いと言い佇まいと言い超シブい感じ。人っ子ひとりいない境内で手を合わせます。
向かって右には待合所っぽい場所と遺品の機関銃が。
今更ですが、激戦区だったんですなぁ比律賓・・・。
そして周囲の慰霊碑へ。
「この碑たて、おれの戦後は、消えにけり」という句が胸に響きます。
どうか安らかにと慰霊の念を送りました。
あと、鳥取縣護国神社から鳥取砂丘が丸見えだったので「もう行かなくていいかな!」となったのは秘密。
そしてこの日の最終目的地「山王宮日吉神社」へ向かいます。
ここは別段艦内神社とかそういうのではないのですが、ある物体があるということで…
まずは細い路地の先にあります階段の上の本殿へご挨拶。日吉神社と言うことで相変わらずお猿さん愛に溢れてます。
そして目的のブツは本殿左後方へ。
「生々無窮」と書いてある碑の横にある半円の鉄…機雷です!
だいぶ破損して朽ちてきていますが、この諸行無常な感じが侘び寂びを感じさせます(謎)。とりあえず慰霊碑に手を合わせてから写真を頂きました。中の写真も撮れるとは・・・。
この日はこれにて終了。
和室にベッドと言う変わったホテルで一泊です。