興安丸
興安丸(こうあんまる Kouan maru)は鉄道省が関釜連絡船向けに建造した鉄道連絡船。金剛丸型の第2船で、第二次世界大戦前から戦後高度成長期にかけて関釜連絡船、引き揚げ船、イスラム教巡礼船として使用された。船名は中国東北部に連なる大興安嶺山脈に由来する。
(中略)
敗戦後、興安丸はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-K086の管理番号を与えられた。
1945年9月~1947年(昭和22年)4月に仙崎・博多-釜山間に就航し、海外邦人の引き揚げ、朝鮮人の帰国輸送などに当たる。引き揚げ者が上陸した仙崎漁港には、跡地の記念碑がいまも残り、記念碑には興安丸の活躍が記されている。1947年12月下関市で天皇全国巡幸時の御宿泊所とされた。1948年(昭和23年)4月に関釜連絡船は公式に閉鎖された。
1949年(昭和24年)6月1日、運輸省鉄道総局を引き継ぐ形で日本国有鉄道が設立されたことに伴い移籍したが、翌1950年(昭和25年)3月に朝鮮郵船(後の東京郵船→昭和郵船)へ国家賠償に伴う補償として払下げられた。
1950年7月~1953年(昭和28年)4月の朝鮮戦争時にはアメリカ軍に傭船され佐世保市-釜山の国連軍輸送に就航し、朝鮮戦争終結後は政府の傭船により中華人民共和国の河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて1957年(昭和32年)に至るまで延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。(wikipediaより)
皆さま秋刀魚の調子は如何でしょうか(暮れのご挨拶)。
自分は各種任務を終えて3-5あたりでダラダラ秋刀魚漁をしている次第です。
前段は割と楽に甲で割ったのですが後段の難易度がちょっとだけ怖い感じ…まぁ今は資源を貯めながらイベントに備えるしかないのですが。
閑話休題、今日は久しぶりに全日好天と言うことで、最近南方ばかりだったのを鑑みて今回は北方の小さな護国社と錨を巡ってきました。
朝から馬鹿ッ晴れでレイリー現象バリバリですが超良い感じ。
高速が通ってない地域なので下道オンリーで向かいます。ツーリング超楽しい!!
1時間かからないくらいで第一目的地へ到着です。
最初は「福地神社」にあります「上境御霊宮」へ。
入口が判んなくて結構うろうろしました。まさか大通りに面したところには入口が無く、大通りをまたいで参道があるとは(^^;
ここは上境地区戦歿者英霊を祀ってらっしゃるということなので、とりま先に本殿へご挨拶・・・ていうかこの後何やら本殿にて神事があるらしく、お爺様方が忙しそうに立ち回ってらっしゃいましたので静かに参拝します。
そして周囲を探索…お、あれかな?
中には此方の設立に携わった方々のお写真が貼ってありましたので、そちらにも手を合わせて慰霊の念をお送りしました。
そしてそこから20分程、今度は割と近くにあります「広旗八幡宮」へ向かいます。
ここは以前お伺いした「植木天満宮」も結構近い感じ。
陽射しが結構きつくなりつつありますが無事到着。
大き目の敷地にこじんまりとしつつ風格ある本殿が佇んでおります。こちらでもとりま先にご挨拶して周囲を探索します…お、これかな?
「熊の子神社」と言うかわいらしい表札が立っておりますが、屋根は穴が開いてボロボロ・・・多分雨漏りもしている感じががが。
よく見ると入口階段すぐ横に「招魂社」と言う杭が立っておりますので多分ここであってるぽい…気を取り直して手を合わせ慰霊の念をお送りしました。
そしてここから1時間半。久しぶりに関門トンネルを抜けて山口県に到達です!
ここ下関市消防局の前にありますのが、引揚船としても活躍しました「興安丸」の錨です。最近「宗谷」関連の書籍を読んでいて、引き揚げ船の働きと言うのも気になっております。時間が出来たらまた舞鶴引揚記念館にお伺いしてみたい所存。
こんな感じで山口まで到達した後は、海側の道を通って宗像経由で帰宅しました。
帰り道のむなかた道の駅でブルーベリーソフトを所望。好天のツーリングは楽しいっスなぁ(*'ω'*)