松山海軍航空隊
松山海軍航空隊(まつやまかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。一挙に増加した予科練甲飛第13・14期の生徒を教育するために新設された予科練教育航空隊である。松山といえば、源田実司令率いる第三四三海軍航空隊の印象が強いが、北側の予科練「松山海軍航空隊」と南側の飛行場である「松山海軍航空基地」は完全に別個の施設で、しばしば誤って混同されている事が多い。
松山空施設は終戦後、占領軍の宿営地として一時期使用されたが、海軍から大蔵省へ移管された後、大半が松山市に売却された。松山市は臨海工業用地として大阪曹達や帝人を誘致して、現在に至っている。南側の松山基地は、進駐軍の接収を経て、昭和27年より民間空港「松山空港」へと変貌した。現在でも四国最大の空港として機能し、国際線も設定されている。(wikipediaより)
坂の上の雲
『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の歴史小説。明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。
『産経新聞』夕刊紙上で、1968年(昭和43年)4月から1972年(昭和47年)8月にかけて連載された。(wikipediaより)
坂の上の雲ミュージアム
坂の上の雲ミュージアム(さかのうえのくもミュージアム)は、愛媛県松山市にある博物館で、同市が取り組んでいる司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』を軸とした21世紀のまちづくりの中核施設である。
2007年(平成19年)4月28日に市内中心部の松山城を頂く城山の南裾に開館し、総工費は約30億円。(wikipediaより)
秋山真之
秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。
三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。(wikipediaより)
愛媛護国神社を出て、暑さに喘ぎながら市内をバイクで疾走する自分。次の目的地は「松山海軍航空隊」にまつわる記念碑・慰霊碑・掩体壕です。
場所があまりはっきりしなかったので時間を多めにとっての突入でございます。先ずは明確に場所の判る「松山海軍航空隊跡」の記念碑から。
ここはバス停にも近く、正面に金毘羅様もありますので普通に到着できました。
慰霊のためにバイクを降りて手を合わせます。
そして次。次も「松山海軍航空隊跡」の記念碑の筈なのですがあまり場所がはっきりしてない…TEIJINの工場入口が近いという情報がありましたので、それを起点として周囲を探索していきます。
情報どおりTEIJINの工場入口に続く通りの中央分離帯にありました。
こちらも手を合わせて慰霊の念を。
無事に発見できたので時間も巻き気味に、今度は掩体壕を見に行きます。
松山市内で確認できる掩体壕は3箇所。こちらも場所があまりはっきりしていないので行き当たりばったりのチャレンジです。
先ずは此方も場所がはっきりしている第一掩体壕へ。
入り口はトタンで完全に塞がれておりますが、立派な掩体壕でございます。表札もあるし
閉まっているので外周だけ拝見して次へ。
次以降の場所ってあんまり写真とか出てないんだよなぁ・・・とか考えながら情報の場所へ。裏側は駐車場になっており、草に覆われた掩体壕っぽい建物が見えるだけ。表に回ってみますと車庫や住居としてガチ利用されている様子。 羨ましい! これはまぁ写真でネットに載せられんですわ。
少し拝見した後、時間も余りましたので前倒しで次の場所へ向かいました。
明日の午前に行く予定だった場所は「坂の上の雲ミュージアム」です!
えー、かなり近代的な建物に一寸驚愕。とりま下の駐輪場にバイクを置いて突入です。
内部は「写真撮影OK」の表示の場所と建築施設だけは撮影可との事。時代背景の解説と小説の解説を詳しく展示してある良質なミュージアムでございました。
眼福眼福。
最上階では秋山真之の特集展示なんかもやっており、かなりのめり込んで拝見しました。自分の中での歴史観にかっちりピースがはまり込む感じの充実感。
ミュージアムカフェで今後の計画を立て直しながら休憩しました。